最期

 ある部族の中に、その部族の誰よりも馬の扱いに長けてる女がいた。長い豊かな黒髪を自慢にしていた。彼女と1番仲が良かったのは優しい瞳をした美しい雌馬だった。

ある日女はその雌馬と一緒に遠くまで走った。あまり遠く走ったので、その日の内に他の部族のものがいる所に帰れるか心配になった。朝からずっと駆けてきて、もう太陽が傾きかけてきていた。

女は自分の愛馬に尋ねた。

「もう疲れた?まだ走れる?」

その時黒い影が彼女達の上に落ちた。女は何だろうと空を見上げた。それで信じられないものを目にした。さっきまであんなに明るく輝いていた太陽が端から黒く染まっていくのだ。まるで太陽が欠けていくようであった。

「あれは何?あんなものは見たことがない。」

女は恐怖に慄いた。昼なのにあたりは段々暗くなって行く。気が動転して、女は雌馬に飛び乗ろうとした。

ところが彼女の愛馬は彼女を乗せなかった。雌馬は大きく嘶いて、前足をあげて暴れると、後ずさりをした。女は驚いた。この子が私を拒否したことが今まであっただろうか。馬は女をじっと見つめた。それは一瞬だった。

それから馬はくるっと向きを変えて、全速力で走り出した。女は叫んで後を追ったが、馬は戻ってこず、草原の彼方に消えてしまった。 女は草原に1人取り残されて、なす術が無かった。

仲間の部族がいる場所を目指して歩いたが、その内日が暮れてしまった。

凍える程寒い夜がやって来て、女は風邪をひいてしまったと思った。悪いことにそれは風邪ではなかった。2日目の明け方にはどんどん熱が上がって、酷い目眩がした。一歩歩く毎に体がどんどん重くなって、そのま

まその場に倒れてしまった。

女はその場で病に憑かれてしまった。目が覚めても這うように進むだけで、そのまま晩と昼が何度か過ぎて行った。体を凍えさせる夜と雨があった。女はぼんやりとする意識の中で考えた。

もう助かるまい。これが自分の寿命なのだ。だとすれば何を恐れることがあろう?準備は出来ている。彼女の部族の女達は死は新しい出発であると教えて育てられた。

女は死と生を 司る存在である。女はそこにただ在るだけで、無限に続く生と死の連鎖を顕す生命である。自分は生の一つの段階を終えようとしているだけだ。女は元々病に憑かれやすく、自分の生命は長く生きるの

ではないと少女の頃から感じ取っていた。

あの美しい馬、あの子のことも恨むまい。恨むなど、とんでもないことだ。あの子は私をただ置き去りにしたのではない。馬のすることに意味のないことなど一つも無い。馬は人間の仲間であり神であった。 女は大空と

草原に抱かれていた。冷たい風も心地良かった。

この大地を守る神々と一つになって死ぬのだと分かると幸福感が体を包んだ。

父と部族の人間の側で死ぬのではなくてよかった。彼女の小さな世界では、彼女の嫌いな男が婚礼の相手で、彼女が男でないことを嘆く男が父親だった。

部族の嫗が言うには、ほんの少し前まで、我が部族の男は誇り高く、女を彼らの所有物と見なすことはなかった。いつの間にか、ほんの数十年、ある世代の少年達が大人になる頃に彼らの魂は悪魔にとられてしまっ

たのだと言った。

朦朧としていると、蹄の音が聞こえてきた。その音には聞き覚えがあった。瞳の優しい彼女の愛馬が、悲しそうな目で女を見下ろしていた。雌馬は戻ってきたのだ。 あたたかい鼻息を頬に感じて、彼女は愛馬の愛撫

に身を任せた。

黄金の音楽が遠くから聞こえてきた。

「私を連れて帰ってちょうだい。私の身体は家族に引き取ってもらうのよ。」

死に際しては魂は大地に、身体は育ててくれた家族の元へ還るのが部族の掟であった。好きな場所で死ぬのだから、死んだ後の身体ぐらいなら父へ渡そう。

一週間後、馬は女の部族の元へ帰り着いた。背中には馬に身体を縛り付けた豊かな黒髪の女の死骸が乗っていた。

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